はじめに
ひさしぶりです。yomoberryです。
ここ最近、転職に関する相談に乗ったことで気づいたことを書いてみました。
どんな仕事にも向いていないひと
何の仕事にも適性がない人がいる。けが人と病人である。
ちょっと考えれば当たり前の話だが、マトモに働ける状態でない人に「適職」などあるわけがない。
というか、ケガや病気でパフォーマンスが出せない人は才能とか努力とかそんなことを気にしている場合ではない。
現代のむずかしいのは、病気やケガというのが誰にでも見える形で表れるとは限らないところにある。
今回する話は、そうした病気のひとつ「プライドが高い」についてである。
「プライドが高い」にありがちなこと
自分に価値があるのかどうかが、いつも頭のどこかで気になっている。
人に頼ったり相談したりすることが、どうしてもできない。
人のアドバイスや指摘を受けると人格否定に聞こえてカッとなる。
「自分はこんなところにいるべき人間じゃない」と「自分には何の価値もない」が、同じ日のうちに交互にやってくる。
さんざん痛い目を見たのに、その辺の無名の会社のヒラ社員としての人生など受け入れられない。
こういう状態にある人は、周囲からよく「プライドが高い」と言われる。
そして言われた本人は、たいてい首をかしげる。自分のことなど、少しも高く評価していないからだ。
筆者もかつてそう言われ、首をかしげた経験がある。
当時は何を指摘されたのか分からなかったが、分からなかったのには理由がある。
「プライドが高い」の意味するところ
「プライドが高い」とは、ふつう「自分を実際より上に見ている」という意味だ。
けれど、この言葉を向けられる人の中で起きているのは、多くの場合その反対である。
自分の価値を低く感じているから、それを証明し続けないと落ち着かない。
頼った瞬間に「やっぱり自分はだめだ」と決まってしまう気がするから、人に頼れない。
大きな夢や有名な会社にしがみつくのは、それくらいのものがないと自分を支えきれないからだ。
外からは見栄や高望みに見える。しかし実態は自信過剰ではなく、余裕のなさである。
残念ながら、この状態を「プライドが高いのだろう」でひとくくりに済ませてしまう人は多くいる。
程度にもよるが、発達障害を疑われて何らかの診断を勧められるかもしれない。
もちろん、「プライドが高い」と言われた本人は何を直せばいいのか分からない。
周囲は「謙虚になれ」「現実を見ろ」と、的外れな方向に押し続ける。
アドバイスを貰えたとして、的外れだと感じるか、脳が受け入れるのを拒否するかで、そのアドバイスを信用することができない。
では、「プライドが高い」の実態とはなんなのだろうか?
「プライドが高い」病の実態
筆者は専門家ではないので、医者が診断書に書くような病名の話はできないが……
ぶっちゃけた話、「プライドが高い」は、褒められなさすぎたり認められなさすぎたり存在を許容されなさすぎたりすることで、本来得るべき承認・自己効力感が不足して起こる「承認欠乏病」(のようなもの)である。
たとえばもし仮にあなたが家族・仕事場どちらのコミュニティでも否定されまくって精神の安定を欠いているようなら、あなたは病人同然の状態であり仕事どころではないと考えた方がいい。
「承認欠乏症」(仮)の人が「プライドが高い」と言われがちなのも所謂「金に困るとケチ臭くなる」的なアレと同じで、とにかく細かな否定も許せない、わずかな承認でもかき集めねばならない、という状態になっているだけだ。
厄介なことにこの状態になると人は思考能力が落ち、物事を冷静に比べられなくなって極端な結論に飛びつきやすくなる。
「自分に向いている仕事は何か」「自分にふさわしい会社はどこか」を真剣に考えるし、人によっては「この会社に入れなければ終わりだ」「この夢が叶わないなら生きている意味がない」といった、ゼロか百かの考え方になることもある。
うつ病、適応障害、といった心の病気ほど重くはないかもしれないが、それでも正常なパフォーマンスが出せなくなることに変わりはない。
繰り返し書くが、「プライドが高い」は性格ではなく心のダメージなので、治すことが最優先となる。
「プライドが高い」人生を立て直すには
筆者の個人的な経験、それから周囲の例をもとにして言うなら、どこででもいいから働いて、足りていない承認(≒健全な人間関係)をコツコツ貯めていくことが解決への糸口になると考えている。
仕事の難易度は低いほどよく、期間限定で雇われる系のバイトなどもいい。
自身とよく関わる相手との人間関係がギスギスしていて承認(最低限必要とされるとか居ても悪く言われないとかそのレベルでいい)を得るどころではない可能性もあるので、心当たりがあるなら少し距離を置いてみてもいい。
仕事には、ひとつ大きな性質がある。
やれば、何かしらの結果が返ってくる。頼まれたことをこなせば、それはできたこととして残る。
誰かに悩みを打ち明けなくても、自分から相談しなくても、仕事は始められる。そして続けていれば、小さな「できた」が勝手に積み重なっていく。
この「自分にもできることがある」という感覚が不足した承認を回復するものになる。
自分の価値を大きな夢や有名な社名で証明しなくても、ひとまず立っていられるようになる。
ここで大事なのが、その仕事での出世や成功は期待しないことである。
要は劇的な転機を待ってはいけない。
筆者自身、何かひとつの出来事で変わったわけではない。働いて、少し認められて、また働いて、という積み重ねの結果、気づいたら持ち直していた。
回復とは、得てしてそういう地味なものである。
なお「どこででもいいから働いて」とは書いたが、最低限、人間扱いされる職場に身を置くことは大前提である。
仮に家庭内がギスギスしているとして、職場でも同じようにギスギスしているようなら欠けた承認は埋まらない。
この辺の判断は「承認欠乏症」(仮)で思考能力が落ちている状態で見極めるのは難しいので、カウンセラー等の専門家に話してみて、そこで判断してもらうのがいいだろう。
将来のことは、治ってから
数か月か、あるいは数年か。
働き続けるうちに、自分の価値を証明しなくても落ち着いていられる日が増えていく。
そうなったら、あらためて将来を考えてほしい。
かつて描いていた夢を、もう一度手に取ってみるのもいい。
そのとき「やっぱりやりたい」と思えるなら、それは本物だ。健康な頭で選んだ目標なら、今度は安心して追いかけられる。
逆に「なぜあんなにこだわっていたのだろう」と思うなら、それもひとつの回復の証である。
あなたのソレ、本当に発達障害ですか?
人間、案外ひとりでは生きていけないものである。
助け合うとは物理的に協力し合うということだけではなく、そこに居ることを許容・黙認されていることも含む。
そこに居場所があるか否かは、見かけ以上に人のパフォーマンスに影響するのである。
そうしたものが欠け、周囲からの目線がつらくなってくると体調や思考能力にも影響が出てくるのだが、令和の時代はそうした体調不良をなんでもかんでも「発達障害」という枠に括って隔離してしまう傾向がある。
もちろん本当に発達障害という可能性もないではない。
なのだが、筆者としては発達障害(=変更の余地がない生来のもの)を疑う前にまず
「人間関係ありきの仕事なのに味方がいなくて仕事どころではないんじゃない?」
「単に仕事のやり方を知らないだけじゃない?」
「体調崩してるんじゃない?」
といった、もっと手前の解決可能な課題でエラーを吐いて止まっている可能性も考えてほしいのだ。


コメント
コメント一覧 (3件)
人に誇れるような成功や実績、肩書きがなくても、そういうものに向かって努力猛進してる最中でなくても、素の自分の存在を認められる心の健全さ、心の芯が無いとほんとに負のスパイラルです。
そのあたりの言語化に強く頷きながら読ませて頂きました。
同じように承認欠乏のかたに届いて欲しい、、
(わたしはいま現在も承認欠乏ですが自覚しただけ一歩は前進したと思いたいです)
この歌詞私のことだ・・・
昔から「簡単なのに感謝されるから使いっ走りや雑用が好き」と思っていたのはこれかもです。
草むしりとか飲食ホールとか軽作業とかしたいな〜と思っていたのがわりと切実な欲求だったのかもしれないと思いました、ちょっと軽いお手伝い探してみます〜
完全に自分のことを言い当てられて驚きました。ここまでの言語化が私にはできなかったので、ようやく自分の深淵を覗き込むことができたような感覚です。